昨日(2011/02/06)の午後NHK-FMでパーヴォ・ヤルヴィのベートーヴェンを特集で放送していた。
交響曲3番、6番、7番、8番そして9番。
山の撮影フィールドロードしていたが、もう帰り道にかかっていて、車の中でほとんど聴くことができた。
いずれもドイツカンマーフィルオーケストラとの演奏。
技術の高い室内オケの強みを生かした、コンパクトで極度に集中ある緻密、かつダイナミックレンジの大きい、エキサイティングな演奏だった。
特に、3番「英雄」は、こんなに壮大にドラマティックな曲(今までもそう感じていたが、改めてより以上に)だったのか!こんな曲をベートーヴェンがあの時代にして書いたのか!という偉業をいっそう理解される思い。
でも、ヤルヴィって、ここまで個性的な演奏をする指揮者だっけ?最近特に鋭く演出してるのかも・・
そのエキサイティングさの秘密は、随所に仕掛けられた独自の演奏の味付け。
どの曲もあちこちで、「譜面には書いてない」表示記号やディナーミクなど演奏の工夫が仕掛けられて、聴きなれた曲が、まるで初めての曲を聴いているように楽しめた。普段、気づかないような、別パートが裏でそんなフレーズをやってるのか、という発見する箇所も多くあった。
以下は、今さら何をというレベルの語るに落ちるかもしれない駄文
ヤルヴィの演奏は、とても素晴らし(く聴こえる)。「今」的でエキサイティングだ。
楽しい、わくわくする。こんな演奏をやって、熱狂的な拍手喝さいをもらいたい。
だけど・・これは、クラシック演奏のスタンダードなありよう、作曲者の意図至上主義、言い換えれば楽譜至上主義とは大きく異なる作法ではないのか。
楽譜に書いてあることから大きくはずれることはしてはならんという、作曲者はそんなこと書いてない、としたり顔でおしかりをもらってしまうという、、そういう作法が自分の中には無意識にしかし強く刷り込まれていた。
つまり、ヤルヴィのやってるのは、「禁じ手」と言えるのではないか。(それって、やってよかったの?)
解説者は、新たな「解釈」にによる、と言っていたけれど、ここまでいじるのは解釈の枠を超え、編曲、作曲に近い作業とも思った。
およそ、ベートーヴェン当時にこう聴こえる演奏がされていたとは思えない。現代(もしかすると「にしか通用しない」)の味付けだろう。
そして、さらに思うのは、いいのか悪いのかわからないけど、これからは、こう奏らないと「ウケない」時代になったのかもなと。
観客は、名曲が記憶のままに再現されるのを望むのではなく、思いもかけない奇想天外な演奏が展開されることに期待して、ホールに足を運ぶようになるのかと。
評価されるのは、いかに斬新で、かつ、曲のインパクトの高い味付けがなされる演奏ができたかどうか。そうなるのか、と。
そしてまた思い至った。いにしえの偉大な指揮者の時代・・、指揮者は楽譜どおりになんてやってなかった時代があったのではなかったか。
裏づけとらず、無責任で申し訳ないが、たとえばマーラーは相当に手直しをして演奏していたろう。トスカニーニ、フルトヴェングラーもしかり。ストコフスキーにいたれば、オリジナルアレンジがごときものになっていたんじゃないのか。それは、その時代にあった味付けでなされたろう。それが当時の観客の熱狂させていたのだろう。
とすれば、ヤルヴィの所作は、禁じ手ではなくて、また同じことなのかと思い至る。
時代は繰り返す。
クラシック演奏での、楽譜至上主義にふれていた振り子が、反動で、楽譜無標記指示自由主義(もっとよい表現がないかね)に戻ってきているのかもな、ということを。
2008年6月8日、みなとみらいホールです。
ヤルヴィとフランクフルト放送響でブラームス交響曲、3番と1番を聞きましたが素晴らしかったです。
カンマーフィルの方が面白そうという意見も批評ブログにありましたが、私にはあれで十分過ぎるくらいでした。アンコールのハンガリー舞曲まで、あっという間に過ぎた気がします。
私は遠征に行った帰り等、車で眠くなるとベーム/ウィーンフィルのブラ1聞いたりします。何度聞いても感動してしまうので目が覚めます。
ヤルヴィにフランクフルト、そりゃ、素晴らしいでしょうねえ。ブラームス!やっぱりするどい演奏でしたか?あ、これもYoutubeに見つかるでしょか。
>ベーム/ウィーンフィルのブラ1聞
また、奇遇です。この土曜日の午後でしたか、「思い出のコンサート」とかなんとか不定期らしい番組やってるのを、偶然に見て、それが1975年のベーム&ウィーンフィルの初来日コンサート、曲がブラ1でした。まったりした演奏なのかと想像するに、ぜんぜんそんなことなく、すごい演奏でした。事前にわかっていれば録画したのに、という名演でした。
あ、でも、眠気覚ましになるのでしょうか・・私には、効かない気がします、、
ヤルヴィの演奏の中でも「荒行」が際立ったダイナミックスの使い方でしたが、「英雄」という曲がそういう曲なのでしょう。スコアを見ると随所に納得される解釈だという気もします。
少ない人数で、トランペットはナチュラル管を使ったりしているのは、それだけ思いっきり弾いたり吹いたりしても本物のフォルテが出せるからで(現代の楽器や大編成だと、どうしてもバランスをとりながら抑えないといけない)、そのメリットを最大限に生かすとこうなりますよ、というお手本を示したかったのだとも思います(それでいて各声部のポイントが埋没しないメリットも)。
おっしゃる通り、往年の巨匠たちも「楽譜通りになんてやっていなかった」ことは確かで、しかし誰もそうは思っていなかったはずです。英雄第2楽章のテンポ一つでも、ヤルヴィとフルトヴェングラーとではこれだけの差がありますし、どちらが正しいというものではないと思います。
もっとも、西欧の演奏家たちは我々が考える以上に日々闘争をしているようで(ライバルたちと、また直近の先人たちと)、自分たちこそ正しいのだ、と思っているのかも知れませんが。
「荒行」ですか・・なはは!
↑の映像は2006年の演奏ですが、ラジオで聞いたのは昨年の確かポーランドでの演奏・・この映像での演奏に比べ、もっともっと色々やっているように聴こえました。ヤルヴィもだんだん先鋭化してるのでは、と思うところです。
小編成ならではのお手本、、なるほど。
往年の巨匠たちも、楽譜に忠実に演奏していた意識だったのでしょうかね・・バロック時代の手を加えて当たり前という、楽譜がそういう存在だったのはいつくらいまでなんでしょうね。
しかし、英雄は、熱い曲ですね。こんなの聴くと、指揮でもやってみたい、なんて血迷ったこと思うかもしれませんです。
当時は、よもやN響の首席指揮となるとは、想像してませんでした。
そうなんですか、お詳しいですね!
>ベーレンライター新校訂版とパッケージには書いてあるのに実際はベーレンライターを使ってない
とすれば、看板に偽りあり、それを目的に購入した方にとっては欺かれる思いでしょうね。なぜそんなことを?
ジンマンが考案した「演出」もあるんですか。
この記事から5年、楽譜にがんじがらめでない「演出」の演奏方向の振り子は、どう振れたんでしょうね?
この英雄の「荒行」を超えるものはないような、つまり、この頃がピークだという印象を受けます。