(2024/07/24開始・2024/07/27更新)
2024年7月、関東地方は例年以上の酷暑にみまわれている。週末、束の間の脱出を図ろうと、長野県の高原エリアへ避暑した。
長野県道2号川上佐久線の全線走破記録も行ったが、その最高所 馬越峠(まごい峠)近く、南相木村側に建つのが「立原線 開通記念(碑)」だ。
この碑は、以前走行した際も横目では見たけれど、今回、その裏面の碑文を記録してきた。
(表面)
立原線
開通記念
馬越峠
東部方面総監
陸将 野尻徳雄
裏面の碑文を読んで知ったのは、この峠越しの林道開削は、自衛隊による受託工事だったということだ。
表面は、陸上自衛隊東部方面隊の最高職位だろう 東部方面総監 陸将 野尻氏により揮毫されたもの。
(裏面 *原文縦書き)
功績を讃えて
由来この峠は大深山遺跡に見られる先住民族の時代からの要衝であったがここに車道を開かうとする計画
は住民の長い念願であった前村長中島春五郎前議長中島常三前川上村長関嘉広氏等の時代に計画されて麓
の両部分は開かれたが馬越峠の五米千は険阻難場のため両村の力では途も及ばない所現川上村長中島一氏と
はかり自衛隊にお願いして昨年川上側の工事を竣わり今年相木側の二千二百米の最難工事を八月十日から
五拾余日の短日時で一挙に開さく美事に竣工されたこれによってこの地域の産業文化の発展は約束された
●(身応)は三国峠を経て日本の表裏を継ぐ路線たらしむべく村人と共に愛護維持するこの喜びとこの工事に尽力
された第一〇二建設大隊南相木作業隊全員の芳名と解説委員を茲に記してその功績を永遠に讃える
陸上自衛隊東部方面隊第一施設団南相木作業隊
隊長 二尉 西村竹一(ほか64名)
開設委員
菊池滝蔵(ほか11名)
昭和三十九年十月五日
南相木村長 井上儀雄
八●●●(*署名か?) 岡本石材店刻む
がんばって文字起こしした。石碑あるあるで、句読点がないから読みづらい。自己責任において、連絡不要でご自由に利用いただいてけっこう。
さて、この碑は、昭和39年(1964)に建てられたものだった。
Wiki情報、県道2号のページで、川上村史からの引用とするものによると「馬越峠の前後では「山村振興開発林道立原線」として開通した道路の一部が後に県道に認定されている。立原線は1963年に着工、1967年3月に完成した」とあり、和暦では、昭和38年着工、昭和42年3月に完成となる。
自衛隊による開通が成功したことを高らかに祝すものだが、道路としては、まだまだこれから整備を控えている時期ということになる。
建てたのは、南相木村長であるとおり、南相木村側の視点で書かれたもの。
小さめの文字が裏面に所狭しとびっしりと彫られ、情報量が多い。
クライマックスは「五拾余日の短日時で一挙に開さく、美事に竣工された。これによってこの地域の産業文化の発展は約束された。」という箇所か。
こういう開通記念碑ならではの当時の熱い気持ちが伝わってくる、非常に佳き碑だと思う。
さらに「三国峠を経て日本の表裏を継ぐ路線たらしむべく」という壮大な文言が続く。
これは川上村を横断し三国峠を越え、さらに埼玉県に入っては旧中津川林道と現国道140号でえんえん秩父市まで、そしてようやく関東平野にアクセスできるという途方もないルートだ。
これを「日本の表裏をつなぐ路線たらしめよう」とする構想はあんまりだと思うが、それくらい当時の南相木村は辺境で、道路網から隔絶された地だったのかもしれないと推測される。
北相木村経由となるが、ぶどう峠で越えて群馬と長野を結ぶ上野小海線の方が、より近く関東と南相木村を結ぶものではないかという気がするが(それでも道のりは長く険しい)、このルートが長野県道上野小海線として県道認定されたのは、1982年(昭和57年)7月16日とのこと。林道立原線の竣工から15年を待たなければならない。立原線は、南相木村と関東方面をつなぐ重要路線であったろうか。
その先の三国峠を越えるルート、埼玉側の現秩父市道大滝幹線17号線(旧中津川林道)と長野県側の川上村道192号梓山線(旧梓山林道)の開通時期、これも宿題となるところ。
この碑にその道が登場していることからすると、昭和39年時点にはもう往来が実用的なルートになっていたのだろうか。
なお、碑の最終行にある草書体のような判読できない署名?はこちら。読める方はぜひ、コメントでご教示願いたい。